THE EPOCH TIMES

「漢服」の変遷と特徴 漢服デザインコンテスト開催中

2008年05月18日 00時41分
 【大紀元日本5月18日】現在、「グローバル漢服デザインコンテスト」が開催中である。これは、新唐人テレビ局が主催する一連の文化芸術コンテストの一つで、「正統な理念を具えた優秀な漢服服飾文化が世界に広まることを促進し、純善純美の中国の伝統的な服飾文化を発揚する」のが目的だという。

 2008年1月にスタートした本コンテストは、7月7日まで第一次審査のためのスケッチを受け付けている。関心のある方は、こちらをご覧ください。英語による説明もあります。

 下に、そもそも漢服とは何か、漢服はどういう特徴を持っているのかということをご紹介しましょう。

 漢服の知識

 中国は、古より華夏、中華と称されてきた。中国大陸の多くの民族の内、漢族は最大の民族であり、「華夏民族」或いは「中華民族」と称された。それゆえ、漢服は、「漢装」「華服」とも言われる。

 漢服とは、「漢朝の服飾」のことではなく、漢族の伝統的な民族服飾のことであり、世界でも最も悠久の歴史を持つ民族服飾の一つである。漢服は文化芸術、詩歌、琴碁書画、武術剣道、音楽舞踏、茶道など全ての中華伝統文化と最もマッチする服飾である。

 歴史的に伝承し発展させる過程で、漢服は古人の「仁、義、礼、智、信」の道徳的内包を十分に現して、さらには純善純美な中国伝統服飾芸術の重要な象徴でもある。

 漢服の定義

 漢服という言葉は、初めは他の民族が漢人の伝統的な服飾に対して言ったものである。胡人(北方や西域の異民族)の伝統的な服飾を「胡服」と称したことから、漢人の伝統的服飾を漢服と称するようになった。このため、漢服とは主に、中国古代の三皇五帝から明末(17世紀中葉)までの数千年におよんで漢族が着用してきた漢族の伝統的な服飾のことであり、その全てを漢服と称した。

 漢服の起源

 多くの人が古典史書の記述から推察するように、古代の三皇五帝の時期には、人々は鳥獣の毛皮をもって衣とし、その後麻を用いて布を作った。後に、黄帝の正妃・嫘祖が、桑を植えて蚕を育て、人々に布を織って衣を作ることを教えた。それゆえ、黄帝の時代に服飾制度が次第に形成され、夏・商の後、冠服制度が次第に確立された。そして、西周時期に、周礼制度が形成され、衣冠制度に対して明確な規定がなされ、冠服制度が次第に礼治の範囲内に組み込まれていき、礼儀文化を表現する方式の一つとなった。漢服は、ここに至って日に日に完成していったのである。

 漢服の繁栄と栄光

 ある聖者がかつてこう言ったことがある。「一朝の天子に一朝の朝臣、一朝の天人に一朝の民、一朝の文化、一朝の服飾」。ゆえに、中国古代の服飾は、ただ単に王朝が替わるにつれて改められただけでなく、朝代が替わることによって服飾の特点もきわめて大きく異なった。それは、それぞれがその王朝の文化を反映しただけでなく、ことなる時期の人類に付与された知恵の違いをも反映したものだったからである。

 商朝の時期には、紡織技術が十分に熟練され、服を上と下の二つに分けるようになり、それが中国衣裳制度の基本形式となった。当時、男女にかかわらず、大かたが腰に幅の広い帯を締め、襟元、袖口には細かく精巧な刺繍が施された。

 
殷商時代

周朝時期、分封制度が確立し、それにつれて冠服制度も次第に完備していった。貴賤の違いによって、冠服の等級もまた服飾の中で厳格な区別が生まれ、帝王と貴族もまた場合と身分によって、それに適した服飾を着用した。

 春秋戦国時期には、「深衣」が出現した。深衣は、上下を分けて裁ち、中間を相連なるように縫い合わせてある。深衣の用途は広範で、男女尊卑の区別なく皆が着用することができ、当時は非常に流行した。

 秦朝が中国を統一した際、各種の制度が創立され、その中に冠服制度も含まれていた。

 漢はその秦の制度を継承し、漢・武帝の時に西域との文化交流を強化してからは、さらに服飾の色彩が増加した。漢朝に流行した服飾は、上下が連なった衣服が主であり、袖口が大きく、肩から踝まである長い上衣が、当時の最も典型的な衣装の形であった。漢朝の政治は安定し、経済は繁栄し、生活が日増しに豊かになるにつれて、衣冠制度も日増しに華麗になった。漢朝貴族の礼服は、そのスカートと襟元、袖口に精巧で美しい縁取りが施されていた。

 
漢時代

魏晋の時期には戦乱が頻発し、人々は故郷を離れることを余儀なくされ、同時に複数の民族が同居する状態が現れた。そのため、胡人と漢人の文化が相互に影響するという状況が生まれた。ゆったりした衣装に広い帯というのが当時の流行の服飾であり、自然のままにゆったり感を追求した服装になった。

 
魏晋時代

隋・唐の時期になり、服飾は富貴かつ華麗な様相を呈するようになり、それは当時の政治、経済、文化、芸術が空前の繁栄を見せた時期であったということを反映していた。この時期、漂白、染色、絹織物の技術が大きく進歩し、それに加えて、シルクロードの開通と対外的な開放によって、クチャ王国(中央アジア)、吐蕃(チベット)、アラビアとペルシャなどの使者もそれぞれの地の文化をもたらした結果、唐朝時期の服飾は多民族の特色が融合され、異彩を放っていた。

 唐朝の染織技術は精巧で美しく、絹織物の染め上げたデザインは前代未聞の高水準となった。それゆえ、唐朝の服飾は材料に凝り、色彩が鮮やかで、様式もきわめて多く、飾りも優美であった。唐朝の服飾はおうようでゆったりして、華麗で雅やかであり、悠久な中国の古代服飾史上、そのピークを極めたと言われるように、燦然と光り輝いている。

 唐朝の男性は、丸襟のひとえの上衣を着用し、頭には幞頭をかぶり紗帽を載せるのが、最も典型的な装束であった。幞頭は、絹布を四角く裁ち、四つ角に垂れ房をつけたもので、髪を束ねる頭巾として用いられ、唐朝では非常に流行した。

 唐朝の女子はおしゃれが一般的となり、化粧を重視し、眉を描き、唇に紅を注し、ほお紅を塗った。服飾の特徴は、大きく開いた襟、大きい袖、スカートは腰高で、上は短いシャツあるいはひとえの服を着、下はロングスカート、袖の短い上着を加えて、絹のショールを羽織り、長いスカートを引きづるようにして歩く。その姿は軽やかで天女のように洒脱で高雅であった。

 敦煌の壁画には、大量の彩色図案がある。その中には仏国世界を描いたものがあって、仏、天人、飛天仙女などの形像があり、非常に荘厳で迫真のものだ。それらを詳細に調べてみると、唐朝の服飾と壁画中の天人らの服飾が非常に良く似ていることが分かるだろう。

 中国の伝統文化は、唐朝時期に世界各国と頻繁に交流があり、アジアの多くの国々に影響したのみならず、現在の日本の和服、韓国の韓服は今なお唐朝の服飾の特徴を残している。

 
隋唐時代

宋朝の衣冠服飾は唐代の伝統的な服制を踏襲したものの、独自の道を切り開いた。当時の社会は理学をあがめ尊んで、「天理を存し、人欲を去る」の観念を提唱し、伝統的で保守的な道徳観を唱道した。それゆえ、服飾はもはや華麗さを追求することなく、自然の質朴さを主とした。

 宋朝の男性は尊卑を分けず、諸般の場合にいずれも幞頭を載せた。但し、当時の幞頭は、帽子のような直角冠帽であった。服飾は依然として丸襟の上衣を主として、さまざまな色のひとえの服で等級を区分した。

 宋朝貴族婦女の礼服は大きい袖のシャツで、周の制度にならって、祭祀などの重要な場合には必ず礼服を着用した。しかし、一般の婦女の服飾は、上衣は短いもの、ひとえのシャツ、あわせの服、大きい袖、半袖、褙子など、様式は多様で、下はやはりスカートを穿いた。

 そのうち、褙子は、貴賤の別なく流行して着用された。これは一種の外套で、襟は垂直で対になり、丈の長さが膝を超えたところに特徴があった。

 
宋時代

明朝の樹立後、冠服制度は周、漢、唐、宋朝の服制を参照して、伝統的な漢服の制度が復活した。明朝の服飾は材料の種類が豊富で、刺繍の技術も発達していた。

 男性の服飾は、長衣が主流となり、役人の朝服は古の制度にならい、烏紗帽を被り、丸い襟のシャツ、袖は広く三尺あり、長衣の色と図案でもって官職の位を区分した。長衣の朝服の前方には四角い刺繍の図案があり、文官は鳥の図案、武官は獣の図案で、紅の長衣は1から4品の官位、青色は5から7の官位、緑色は8から9品の官位を表した。

 婦女服飾は、主にあわせの上着、ひとえのシャツ、褙子、比甲(ノースリーブの長衣)、スカートで、様式は唐宋を踏襲していた。ひとえのシャツは、深い紅色、黄色、青色は用いることができず、ただ桃色、紫、綠色だけを着用することができた。

 明朝の婦女の礼服は、鳳のティアラと霞の肩掛けであった。后妃が祭祀大典などの重要な場合に着用する服飾は、鳳のティアラに龍鳳をあしらい、霞の肩掛けと組み合わせて使用した。

 漢服の特色

 漢服の最も主要な特徴は、襟を右前で交差させ、袖口が広くて長く、ボタンは紐ボタンを使う。漢服を着ることによって、その人の態度やふるまいは、落ち着きのある、おうようで垢抜けがした気質と美感をかもし出す。

 これらの特徴はその他の民族の服飾と異なるだけでなく、漢服の影響を受けて生まれた日本の和服や韓国の韓服などとも異なり、西洋の服とはさらに大きく異なる。
関連キーワード
^