【大紀元日本8月24日】唐・白居易の『賣炭翁』に次のような二句があります。
可憐身上衣正単(憐れむ可し 身上の衣 正に単なり)
心憂炭賤願天寒(心に炭の賤[やす]きを憂い 天の寒きを願う)
自分で炭を焼き、牛車に積んで売りに行く。途中で宮中の遣いの者にただ同然で買い取られていく。そんな苦しい翁の生活を詠った詩です。寒い冬にも一重の衣しか身に着けることができず、その姿は正に「憐れむ可し」です。
中国語の『可憐』は、一部に「愛らしい」「喜ばしい」という意味を持ちましたが、その基本義は古くから「憐れむ可し」であり、今も変わりません。
ところが、日本語の「可憐」は、「かれん」と読む限りにおいて、現代語では「愛らしい」という意味であり、「憐れむ可し」という意味は持ちません。もちろん、「愛らしい」義は、憐れむべきものは往々にして「いじらしく愛らしい」ことが多いということの派生によるものでしょうが。
樋口一葉の作品に次のような一節があります。
・だけれどあの子も華魁(おいらん)に成るのでは可憐(かわい)さうだと下を向ひて正太の答ふるに、(たけくらべ)
・私はもう今宵かぎりどうしても帰る事は致しませぬとて、断つても断てぬ子の可憐(かわゆ)さに、奇麗に言へども詞はふるへぬ。(十三夜)
「可憐」という語に「憐れむ可し」義と「愛らしい」義を認めていることが見て取れますが、ただ、ここでは「かれん」と読ませているわけではなく、あくまでも当て字です。それに、「可憐」に「憐れむ可し」義を認めたのは、樋口一葉が漢文の素養があったことによるものと考えられます。
このような日中語の違いを考えたとき、「可憐な少女」が中国人にとっては「かわいそうな少女」に変身することは十分考えられます。
(智)
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