「忠孝」に関する誤解

2014年07月29日 07時00分
【大紀元日本7月29日】中国では人々が「忠孝」について、次のように理解しています。「君主が臣下に死を求める時、臣下が死を断れば忠と言えず、父が子を滅ぼそうとする時、子が滅び命を落とさなければ親不孝である」

 これは共産主義社会での邪説であり、悪を補助し悪事を働く者たちの口実にすぎません。「四書五経(ししょごきょう)」と「二十五史(『清史稿』を含む)」を調べても、どこにもこのような説はありません。

 『孟子(もうし)・万章章句(ばんしょうしょうく)』には「斉宣王が大臣について聞く」というくだりが記載されています。

 孟子:「王様はなぜ大臣の役割を聞くのですか?」

 斉宣王:「大臣にも違いがあるのか?」

 孟子:「もちろんです。皇族である大臣とそうでない大臣です」

 斉宣王:「まずは皇族である大臣について聞きたい」

 孟子:「君主に大きな過ちがある場合、直接諫言(かんげん)すべきであり、繰り返しても諫言を聞かなければ、君主を替えるべきです」

 斉宣王はそれを聞いてふっと顔色が変わりました。

 孟子:「王様が顔色を変える必要はありません。王様の質問に私は素直に答えざるを得ません」

 斉宣王は顔色が元に戻った後、皇族でない大臣について聞きました。

 孟子:「君主に過ちがある場合、直接諫言すべきであり、繰り返しても諫言を聞かなければ、大臣自らが去っていくべきです」

 孟子は非常にはっきりと言いました。君主に大きな過ちがある場合、皇族なら直接諫言すべきであり、聞かなければ君主を替えて、民に災いをもたらすこと、また国を危機に陥らせることを避けるべきだと言いました。君主に過ちがある場合(大小を問わず)、大臣は直接諫言すべきであり、聞かなければ大臣が去っていき、悪事を助けて罪を助長してはなりません。

 『孔子家語・六本』には次のような物語が書かれています。孔子の弟子・曽参(曽子)は歴史上有名な孝行な息子です。ある日、彼は瓜畑で野良仕事をしていた時、不注意で瓜の苗の根を鋤で切ってしまいました。曽子の父親・曽皙(そうせき)は激怒して大きな棒で彼の背中を打ち、曽子が倒れて意識を失うまでずっと打ちました。時がずいぶんと経ち、曽子はやっと意識が戻りました。曽子は喜んで地面から起き上がり、曽皙に聞きました。「先ほど過ちを犯し、父上を怒らせてしまいました。私を力いっぱい訓戒して、疲れたのではありませんか?」

 曽子は部屋に帰り、琴を引きながら大きな声で歌いました。彼は父親・曽皙に自分が無事であることを伝えたかったからです。孔子はこの事を聞いてとても怒り、弟子たちに「もし曽参が来たら、入らせてはいけない」と言い残しました。曽参は自分には過ちがないと思ったので、孔子に人を送って聞きました。すると、孔子は次のように答えました。「聞いたことがありませんか? 昔、虞舜(ぐしゅん)の父親は瞽叟(こそう)(両目が見えない)で、舜が父親の世話をする時、瞽叟が舜に何かしてもらおうとすれば、いつもそばにいましたが、瞽叟が舜を殺そうとすればいつも探せなかったのです。瞽叟が小さい棒で舜を打てば、舜は黙って我慢しましたが、もし瞽叟が大きい棒で打とうとすれば、舜はすぐに逃げて姿が見えなくなりました。それで瞽叟は親として大きな過ちを犯さずに済み、舜も純朴な親孝行ができたのです。今日、曽参は父親の面倒を見ていますが、体を放棄し、父親がひどく打っても、死ぬほど打っても避けることさえ知らず、そこで曽参が死ねばその父親は不義な者となります。曽参の親不孝に比べれば、どちらが重大ですか? 曽参は天子の民ではありませんか? 曽参の父親が天子の民を殺すのならば、その罪はどうすればよいのですか?」曽子は孔子の話を聞くと、「曽参の罪は大きいです」と答え、孔子を訪ねて謝りました。

  『旧唐書・志第四』には貞観(じょうがん)唐の14年3月、唐太宗が国子学(中国古代において朝廷の最高学府)に行って「至聖先師(孔子のこと)」を記念する式典に参加した時の事が書かれています。大師・孔穎達の『孝経』に関する話を聞き、唐太宗が孔穎達と「孝・義」について弁論・分析する時、引用したのは『孔子家語・六本』のこの物語で、孔子の意見を尊重しました。

 これで、人として親孝行をすべきですが、親孝行は無条件に従うことではないということが分かります。親に誤りがある場合は優しく指摘するべきであり、親が激怒して子供を打とうとする時は、状況を判断して、まずは逃げるべきです。親の怒りが収まった頃に戻って謝罪し、取り返しのつかない状況になることを避けるべきです。

 (翻訳編集・李正賢)
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