THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(35)「頭に大怪我」

2008年05月25日 15時17分

 ある日、王喜杉が外の間に出て来て、使用済みの器具を洗っていました。彼が洗っている小さな柄杓にはまだ茶色い水が残っており、それを注射器に吸い込むと、ヘラヘラと笑いながら、オンドルの縁に腰掛けていた私をめがけて飛ばしました。おかげで私は、顔も体もモルヒネの混じった汚い水だらけになりました。彼は私をからかいながら、「おい、お馬鹿さん、お前もちょっと麻薬漬けにしてやろうか」と言いました。

 私はそのとき、とても大きな侮辱を受けたように、悲しみと憤慨を覚えました。人から「日本の犬っころ」と言われるよりもっと哀しくなりました。しかし、養母は私の味方をしてくれるどころか、その災難を見て喜びながら下品なことを言っています。

 それ以来、私は次第に、養母は全く母親らしくなく、私のことをただ単に、気ままに使える「子供の召使」としか考えていないということがわかりました。

 ほどなくして、養母に男の子が生まれました。名前を「劉煥国」といいました。養母が子供を産んでから、養父が一度だけ帰って来て、十日あまり滞在しました。養父は家で養母のために産後の食事を作っていました。まず粟をしばらく水につけて置き、それからおかゆ状に煮ます。そこに卵をいくつか落として、とろ火でじっくりと煮込みます。卵が砕けてしまわないよう、火は決して強くしません。

 養父は何でも辛抱強く教えてくれ、私に対してとても優しかったのです。そのため、私は少しも慌てることなく、全てしっかりと覚えることができました。

 私はさらに、毎日小川のほとりに行って服やおしめを洗わなければなりませんでした。これは、私がやらなければならない仕事でした。しかし、養父が行ってしまうと、他のことも含めて全て、子供の私の肩にかかってきました。

 私は小柄だったので、棚の上の容器に手が届かず、かまどの上に乗らなければなりませんでした。あるときボールをきちんと置かず、下に落としてしまい、大きな音がしたことがあります。養母は赤ん坊がびっくりしたと言って、私を火起こし棒でひどく叩き、膝の辺りが赤くはれ上がりました。私は自分の薄暗い部屋に戻り、膝を摩りながら涙を流しました。

 ここへ引っ越してからは、誰も助けてくれる人はおらず、私は本当に養母が私を殴り殺すのではないかと心底恐れました。

あるとき、養母は私にナスの炒め物を作るように言いました

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