中国「宋代四大書院」白鹿洞書院掲示の教え③

2007年01月14日 13時17分
 【大紀元日本1月14日】朱子が漢詩『偶成』に託した「少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰、軽んず可(べ)からず」の一節は、勧学を諭したコンパクトな言葉として、日本でも広く知られている。光陰(年月)は、矢の如く一瞬に過ぎ去る。少年(若者)は、この世の究極の理を学ばないうちに、早々と年老いてしまう。・・・若い時にこそ、そのことに気がついて、勉学に励みなさい。この有難い老婆心は、次第に時代の為政者(元・明・清)及び、中国に勃興する新民の心を捉えてゆく。

 堯・舜の神話的治世の時代は、天から下された「法」が説かれ、地水の物理が整えられた。天上から地へ聖なる教えが流れる。一方朱子学は、地上の物理から天理へ至る道を、体系的な知によって説明する。人間が教育によって地上から天へと帰還する道を、初めて体系的な「理」によって教えた。中国における朱子学の登場は、聖なる教えの流れに(天から地へ→地から天へ)、逆転が起こったことを物語る。このことによって、中国の科学が実用化される基盤が、整えられた。宇宙を物理によって解明する体系哲学が、朱子によって中国文明に初めてもたらされた。

 この朱子学の体系的な理の一撃が、地上の人理システムを確立する、官吏登用・科挙制度を席巻する。科挙試験の主要なテキストとして重んじられ、国家教学への道を歩んでゆくのは、時代の申し子である朱子学の必然であった。時代と支配者と新興新民(貴族没落後の士大夫階級=知識人)は、治世と立身出世のイデオロギーとして重宝する朱子学を、積極的に受容してゆく。聖なる教えの世俗化が、中国社会に浸透する。それと共に書院(私塾)文化が、宋代に繁栄したのである。

 宋代四大書院文化の隆盛と共に、白鹿洞(びゃくろくどう)書院掲示の教えは中国社会に浸透した。科挙が廃止される清代末期(1905年)まで、時代の知を率いて、来るべき西洋科学時代の流入に備えるのが、朱子学の任務だったといえる。宋代には重要な三つの科学的発明が、実用化され進展した。朱子学が人々にもたらした物理的思考と、実用化の進展は無縁ではない。「火薬、木版印刷術、羅針盤」の発明が実用化し、やがて回教徒をへてヨーロッパ世界に輸出されてゆく。これは朱子学がもたらした知的衝動の、世界への伝播といえる。

 朱子の発した理の体系は時代を超え、国を跨いで日本の国にも伝播した。それはすなわち中国から日本に、中国的な科学思考が伝播したということを意味する。鎌倉時代前期の真言宗の学僧・俊じょうが入宋して見聞し、日本に朱子学を持ち帰ったとされる。北条氏が南宋から導入した五山制度(鎌倉五山など禅寺の格式化)に随伴して朱子学は、鎌倉後期に第一波の重要な浸透が果たされる。やがて朱子学は、後醍醐天皇の内面に炎上して鎌倉幕府滅亡を促し、天皇親政を復活させる原動力となった。建武の新政(1333年)から南北朝の動乱を経て、南朝を立てた後醍醐天皇が病に倒れて奈良・吉野で崩御し、室町時代へと移行する。

 日本に伝播した朱子学はやがて、江戸幕府の官学として時代の主流となり、幕末から明治維新にかけて日本人の誠の中で、大いに炎上する時代を迎える。

 朱子学とは何か?江戸時代の日本人が夢見たものとは・・・。

(つづく)


関連キーワード
^