【大紀元日本10月15日】唐の都・長安は国際都市であった。東西のさまざまな人種や宗教が混在しながら共存し、一つの調和的文化世界を形成していたのである。
山上(やまのうえの)憶良(おくら)は、遣唐使としての公務の暇を見つけては長安の街を歩き、好きな書籍を購い、その華やかで自由な風に身を任せた。
また彼は、則天武后がいる東の都・洛陽にもゆき、長安とはまた違った水都の美を楽しんだ。洛陽の南、十数キロのところに龍門石窟がある。石窟に彫られた仏像群は高宗から則天武后のころが最盛期であったというから、まさに憶良は、そのころの中国仏教文化の精華を全身で感じたことであろう。龍門石窟のなかで特に名高い、高さ十七メートルの盧遮那仏は、のちに奈良・東大寺大仏のモデルとなったという。
在唐時の憶良がどのような思想的影響を受けたかについて、中西進編『山上憶良 人と作品』より辰巳正明氏の文章の一部を引用させていただく。
「憶良はこの国が儒教の国でありながら、仏教を優先し仏教文化が隆盛するとともに、さらには道教と呼ばれる固有の民族宗教も盛んであることに不思議な感慨を覚えた。むしろ、こうした儒仏道の思想・宗教の隆盛の中で、それをエネルギーとして中国の文化が成立しているのだと思った。憶良がこの在唐時に知り合った数多くの知識人たちの考えは、単に儒教の思想のみでなく、深い仏教や道教の思想の理解によっている。しかも、それぞれの視点から自らの考えを主張して、あるべき政治や社会の理念を論議する姿に驚くのであった。しかし、憶良が最も驚いたのは、彼らが語った人生観についてである。(中略)彼らが熱っぽく語る人生観には、深い道徳観や宗教観がある。何よりも憶良を感動させたのは、彼らが、いかなる人間も生涯にわたって人間の苦からは逃れられないのだと考えていることについてであった。それは仏教的宗教観だけから主張しているのではなく、儒仏道の思想を十分に踏まえて語られるところの人生観であるのだ」
このような憶良の体験を踏まえて、辰巳氏はまた次のように言う。
「人は、どのような人生観を持つか。憶良はそのことを深く心にとどめた。中国へ来て最も大きな収穫は何かと問われれば、憶良は迷うことなく右の問いかけを得たことだと答えることだろう」
千三百年前の日本の先人が唐土で開いた心眼は、確かなものだったようである。(続)
※参考文献中西進編『山上憶良 人と作品』桜楓社
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