THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(29)

2008年04月24日 00時36分

 私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の実家から出て来てまだ間もないとのことでした。

 彼は毎日天秤棒を担いでは、揚げ菓子や焼きパンを売っており、売れ残りが出ると、時には王潔如と私と弟に、均等になるように分けてくれました。私が養母から酷い仕打ちを受けたとき、彼は私をかばってくれたことがありました。

 中国の冬は寒く、屋内の水甕の水さえ凍りつくほどで、屋外に撒いた水はあっという間に凍りました。降った雪も溶けませんでした。弟の養母は弟に、小さな柄の綿入れの服とズボン、それに小さな綿入れの靴も作ってくれました。靴の先には虎の頭が刺繍されていて、とてもかわいく見えました。

 私の養母は縫いものができなかったので、西棟の南の間の王おばさんが、紫色の長い綿入れの上着を持ってきてくれました。王潔如にはもう小さくなったのだそうです。私は、こんなに長い綿入れの上着を着るのは初めてだったので、全身を鏡に写してみたいと思いましたが、どの家にも大きな鏡はなく、小さな長方形の鏡があるだけで、顔が映るだけでした。

 私と弟は、中国服を身につけました。中国語もすぐに話すことができるようになりました。私は当時、母に私たちのこのような格好を見てもらいたいと思いました。しかし、母はどこにいるのでしょうか。どうやって探したらいいのでしょうか。

 私は腹を決めて、西棟の南の間に住む王おじさんに頼みに行きました。おじさんは困って、「あんたたちを連れてお母さんを探しに行くことはできないが…機会があれば、団長と連絡を取ってお母さんに会いにきてもらうことにしよう」と言いました。私はうれしくて、王おじさんにお礼を言いました。それ以来、私は早く母に会えるよう、待ち望んでいました。

 長屋の人はみな、養母が癇癪もちだというのを知っていましたが、私は初めは全くわかりませんでした。私が養母の家に来て間もないころ、中国語がわからなかったので、薪を持って来るように言われたのに、箒をもって部屋に入って掃除したことがあります。すると、養母は部屋に入って来るなり、私から箒をひったくって、柄のほうで私を打ちすえたのでした。

私は唖然としました

関連キーワード
LINE NEWSに『中国の今を伝える 大紀元時報』を登録する方法
^