THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(49)「気弱になった養父」

2008年10月01日 16時19分
 【大紀元日本10月1日】その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。養母は多額の金銭を得ましたが、当時の私はぜんぜん知らないことでした。

 当時の私はまだ12歳で、トンヤンシーの意味も良く分からず、趙家に行くことにしたのは、そうすれば養母が学校に行かしてくれると言ったからでした。「学校に行って勉強できる」というのは、私にはとても魅力的でした。

 養母が私の将来に対して、このような破滅的な行為をしたことは、私には思いも寄らず、端から考えもしていないことでした。それゆえ、養母が話したことには疑いももたず、ただ二つ返事で承諾しました。

 養母はトンヤンシーの話は一切しませんでした。ただ、趙家は閻家屯の新立村にあり、家はとても裕福で、成人した息子が二人おり、長男は既に結婚しているが、次男はまだで、女の子を欲しがっているというのでした。その上、私が小学校を卒業するのを待ってから趙家に行けばいいとのことでした。

 これには私は大変喜びました。学校に行って勉強できるなんて、夢にまで見ていたことです。ただ、養母がどうして急にそのように性格が変わり、私にやさしくなったのか、どうして急に学校に行かせてくれるようになったのか、どうして大切な労働力を他家にやってしまおうなどと考えたのか、当時、団長に見つかったら連れて行かれるので、見つからないように私を隠したのに、どうしてそう簡単に手放したりできるのか、少し考えてみれば分かることなのに、そのときはそこまで考えが及ばず、不思議なくらいに「間抜け」でした。

 そのときはただただ、勉強できるということで私は有頂天になり、前途に落とし穴が潜んでいようとは思ってもみませんでした。

 私はあのときはひたすら歓んで、ただ毎日学校の冬休みが終わって、学校に行けるのを待ち望んでいました。

 その日の晩、私はウキウキとして、どうしても寝付けず、開拓団本部で勉強していた頃、学校の先生たちが私を聡明でよく勉強ができると褒めてくれていたのを思い出しました。先生が褒めてくれるたびに、どれだけ有頂天になったかしれず、学習にいっそう力が入りました。

 ところが、沙蘭に連れて来られて以降、もう就学の機会はないものだと思っていました。私は早くに弟の趙全有が学校にあがったと聞き及んでいました。ただ、私たちが引っ越してからというもの、自由に弟と会うことができなくなりました。弟はここ数年でどれだけ大きくなったか知れません。もし学校へ勉強しに行くことができるようになれば、毎日彼に会うことができるし、彼と話をすることもできます。私は思えば思うほど待ち遠しくなり、ますます嬉しくなってきました。

 数日して、養父が山から柴を刈って戻ってきました。私は、養父が家に入るのを待ちきれずに、急いで外に駆け出して、耳元で、「お母さんが学校に行かせてくれるって」とささやきました。

 養父はそれを聞くと大変に喜びました。実際、養父は早くから私を学校に行かせたかったのですが、養母が承知しなかったのです。養父は処々で養母の怒りっぽい性情に手を焼いていました。もし、養父が養母に少しでも反対すると、養母はすぐに養父にわめき散らしたり、手をあげたりしました。

 養父は、労働改造を受けて以来、心身が弱り、ますます養母の言いなりになりました。養父は養母の前ではただいじめられるだけで、隣近所までもがそれを目にしていました。

 養父は山に柴刈りに行くと、夜中に帰って来るのですが、そのときは私が起きて、養父にご飯を作り、顔や足を洗うお湯を沸かしたりしてあげました。養母は養父が朝から晩まで苦労していることなどお構いなしです。一体どうしてなのか、私には分からないし、知るすべもありませんでした。

 養父は老いていましたが、ことわざに、「心の様が姿形に現れる」と言うように、養父は、端正で鷹揚であり、背が高く、背筋が真っ直ぐのび、歩くときも軍人のように胸を張って大手を振って歩いていました。あのとき養父はもう50を過ぎていましたが、腰も背中も曲がっていませんでした。

 一方、養母は小柄で、養父より20歳あまり若かったのですが、長年横暴で放縦だったせいか、却って少し猫背でした。容貌も良くなく、当時私が初めて彼女に会ったとき、大変に恐ろく思ったものです。そのうえ、誰もが養母を目にするとこう言いました。「あなたのお母さんは恐ろしい形相だな。一目見てずるい人だと分かるよ」。

 隣近所の人も、養父は老いて、往年の「劉官吏」ではなくなった、それに旧満州領の警官だったため、共産党から出自が悪いとされて、一生人より一段低くみられるのだということがわかっていました。

 そのため、養父は口数の少ない人へと変貌し、他人の言うがままにするのが常となってしまいました。養父の内心の苦痛は、精神を踏みにじられた結果だったのですが、そのことを私は、後年文革で自分が幾多の曲折を経験してはじめて身をもって実感しました。

  (続く)
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