THE EPOCH TIMES

高智晟著『神とともに戦う』(2)「いつになったら腹一杯食えるのか」

2009年08月28日 22時03分

 【大紀元日本2009年8月28日】私は1964年、陕西省北部の農村に生まれた。それは中国人誰もが貧しかった時代。なかでも我が家は特に貧乏だった。記憶の中の父は、オンドルの上でいつも「いつになったら腹一杯食えるのか・・・」とぼやいていた。

 私が10歳のとき、父は逝った。父が入院していたころ、もう我が家は破産状態だった。父の死亡時、病院には80元の未払いがあったので、遺体さえ引き取れない始末に。当時の80元は価値が高く、まして我が家にとっては天文学的数字であった。確か当時、馬という姓の教師のお兄さんが人民公社の書記をしており、その人が保証人になってくれたので、ようやく遺体を引き取ることができたのだった。


 その後、我が家は困窮を極めた。家には7人子供がおり、上は17歳、下はわずか2~3歳。兄や姉は14~15歳になると、外で働き始めた。成長してから、母に「なぜあんな幼い子を外に出したの」と聞いたことがある。母は理屈を並べることもなく、ただ「自分の子供のことは分かる」とだけ言った。外に出せば生き延びられるかもしれない。だが家に残ったら、みな飢え死にするだろうから。

 父が逝った明くる年、私と弟が山で採る薬草が我が家の家計を支えることになった。あの当時、市は10日に一度開かれていた。10日かけて採った薬草で、10日食いつなぐ。その次の10日のために、また10日間薬草を採る。こんな日々が丸2年続いた。

 15歳で弟と働きに出た。陜西省の黄陵のとある炭鉱で石炭を掘った。今、むごたらしい炭鉱事故を目にするたび、当時の光景が頭をよぎる。今は社会の目もあるから、関係者も形式上はこの種の炭鉱事故に多少の注意と考慮を払う。だがあの当時、人の死さえ蟻の死と何ら変わりはなかった。

 働いたといっても、実際には一銭も稼げなかった。当初炭鉱で掘っていたとき、石炭を1km強のゆるい坂の上まで運ぶと1元もらえた。地元の有力者はロバで運んだが、我々は人力。しかも一番年下で、力も弱い。多くても一日17回分しか運べない。

 あの坑道から怒鳴り声やわめき声が聞こえただけで、私の心は乱れた。「弟がいじめられているのでは」とそれだけが気がかりで。当時、自分がいじめられても、なんともなかった。けれど弟がいじめられると、心が引き裂かれるほどつらかった。仕事が引けて、その日運んだ石炭の数が壁に記録される。この時が最も我々兄弟が興奮する時間。9ヶ月もすると、壁はその数字であふれかえった。しかし後に、それは単に我々が生き延びた証拠に過ぎなかったことに気づいた。

あるとき炭鉱が崩れて

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