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中華文明の薀蓄:下榻

作者:心語

 【大紀元日本8月2日】中文メディアの雑誌や新聞でよく見かける言葉に、ある国の元首が政務で外国を訪問した時、あるいは国際的な有名人がどこかを訪問してホテルなどに宿泊した際に、「下榻(シャーター)」というものがある。

 古典にも記載がある。唐朝の劉長卿による「送買三北游」の詩では、「また知るや到る所で下榻に逢う、西の秋風が先月に滞ることなし」とあり、また「三国演義・第4回」では、「君を広々と緩やかに座らしむ。今宵は宜しく藁葺きの家に宿泊(下榻)するべし」とある。

 では、なぜ宿泊先を探すことや宿泊することを「下榻」というのであろうか?

 実際、「下榻」という言葉は、古代のエピソードから来たものであり、「後漢書」から出たものである。「下榻」の「下」とは、宿泊するとか、宿に留まるという意味であり、「榻」とは一種の比較的細長くて低いベッドのことである。

 「後漢書の第66巻・陳蕃伝」の記載では、東漢末の大臣であった陳蕃は、人格方正にして厳格であり、悪を憎むこと仇のごとくであったと記されている。

 漢朝のころ、いまだ科挙の制度はよく整備されておらず、孝廉の士を引き上げることが一種の登用制度となっており、地方の官吏は朝廷に向けて父母に孝行な者を推薦し、清廉潔白な人が官吏となることができた。陳蕃は二十歳余りでこうした制度により登用され、郎中として出仕した。ほどなく、彼の母親が病死したため、陳蕃は官を去り、喪を守った。後に、彼は再び楽安の太守に任じられた。

 当時、郡内には高潔な士として名高い周璆がいた。璆の字(あざな)は孟玉、済との国境に住み、歴代の太守が彼を抜擢して登用しようとしたが、ことごとく彼に断られ、陳蕃のみが彼を招待することができた。陳蕃は周璆に対する敬意を表すため、ただその字だけを呼び、その名を呼ぶことはしなかった。陳蕃はまたさらに周璆のために府内にベッドをもっぱら設け、彼を宿泊させて接待し、周璆が去ると、それを掲げた。

 この他には、《後漢書・第53巻・徐稚伝》にも記載がある。徐稚は、字(あざな)を孺子、東漢は豫章南昌の人であった。

 徐稚は学問が博識であったが、家が貧しく、自ら畑を耕しては自活し、品行が高潔で評判の男であった。官庁は幾度となく彼を召したが、ことごとく彼に拒絶された。

 陳蕃は、当時豫章の太守に任じていたが、彼は厚い礼儀をもって徐稚を官庁に招き、功曹の職務を担当させようとした。徐稚は無碍に断るのも悪いと思い、自ら陳蕃に面会して後に職務を辞した。

 陳蕃は郡内では賓客を接待しなかった。ただ徐稚のためにベッドを用意して、徐稚が来ると共に宿泊し、彼が去るとそれを掲げた。

 「物華天宝、龍光射斗牛之墟。人杰地灵、徐孺下陳蕃之榻」。華麗な天の宝、龍光剣の光は星座斗と牛との間にある辰の位に射し、人材傑出して山川秀でて、高士徐孺が陳蕃のもうけたベッドに宿泊す、という意である。

 これは唐朝の詩人・王勃によるもので、洪州都督が滕王閣で宴会を催した際に、これに参加して吟じた著名な《滕王閣の序》中の詩句である。詩の中の内容は、滕王閣のあった地の洪州(現江西南昌)地区はまことに傑出した人物が輩出された名所であると称揚したものである。詩の中では、徐孺子と陳蕃とのベッドのエピソードを引用しており、徐と陳蕃とが才徳の人であると称賛している。

 この二つのエピソードから見てわかるように、下榻の本来の意味は、陳蕃が周璆、徐稚の二人の賢才に敬意を表し、厚い礼をもって士を遇し、客として宿泊させたということである。

 後に、この二つのエピソードは、「陳蕃下榻」「陳蕃榻」などと言われ、賢才を重んじ、あるいは厚い礼儀をもって賓客として遇することを指すようになった。

 しかし、後世の人々は次第に「下榻」を宿泊の意味で使うようになった。

 (09/08/02 00:10)  





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