印刷版   

(NOAH SEELAM/AFP/Getty Images)

寂しさという世界

 【大紀元日本11月25日】

 蘇軾(そしょく、中国北宋代最高の詩人)の「水調歌頭」の詩には「我 風に乘りて歸去せんと欲すれど又恐る 瓊樓玉宇、高き處 寒さに勝てず」の一節があった。悩みも知らない若い頃に読んだこの一節は、寂しさについて述べていると思っていた。なぜならば、誰もいない高いところに寂しさが伴うのは当然だ。従って、高いところに昇りたいならば、寂しさに耐えることも当たり前になる。だからこそ、平凡さを超えたければ、高き「寂しさ」を受け入れねばならないのだ。

 しかし、歳を重ねるにつれて、名利を求める浮世の中で、えてして世の華やかさと忙しさへの疲弊感を覚えていた。そのたびに、寂しさが恋しく思えてくる。このように度重なる俗世への疲弊感と寂しさへの憧れを繰り返す中、私は「寂しさ」という超然的な境地を発見したのだ。この種の寂しさは、もはや世俗の名利と物欲からかけ離れ、精神世界に直結する清らかさであり、「寂しさ」を寂しいと感じない境地である。

 それから、寂しさの良さが目に見えるようになり、人から見て寂しい生活に慣れてきた。寂しさ、それは騒がしい世間とは無縁な静けさであり、世俗を超えた自由自在なものである。思えば、寂しさとは単に音がない状態を表すものだが、感情が入らない状態ならば、なぜ寂しいと感じるのだろうか。

 寂しさは一つの世界である。この世界には得失と興亡はなく、名利や争いもない。この世界はすべてを包みながら、すべてに包まれている。だからこそ、世間の真実を見抜くことができるのだ。

 寂しさは、まさに道である。それは世俗に始まるもので、命のあるべき場所に続いていく。

(翻訳編集・李頁)


 (09/11/25 05:00)  





■関連文章
  • 【中国伝統文化】蘇軾への教え(09/08/01)
  • 寂しがりやのネット・ユーザーが多い国は?(06/06/16)