THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(41)「養母の生い立ち」

2008年07月09日 07時35分

 ところが、そんなとき、私が養母に最も嫌悪を感じ、受け入れがたかったことは、彼女が私によその家に行って「物の無心」をするよう言いつけたことでした。

 あるとき、養母は私に隣の王喜蘭の家に行かせ、団子を無心させようとしましたが、私は行きたくなくて、すぐには動きませんでした。すると、養母は私の膝の辺りを蹴り上げました。私は立てなくなり、地べたに膝をつきました。養母は私の襟首を掴み、私を立たせるとすぐに行かせたのでした。

 私は養母にせっつかれて、いやいやながら行きました。王喜蘭の家に着くと、ちょうど一家が食卓を囲んで団欒のひと時でした。私は一家団欒で食事をしている中へ行って食べ物を無心するのは恥ずかしかったので、外で王おばさんが出てくるのを待ってから事情を話そうと思いました。

 王おばさんを待っていると、都合よく出てきたので、私は恐る恐る小声で、「お母さんが、団子をもらっておいでと言っているんですが…」と言いました。王おばさんはそれを聞くと、少し不機嫌になり、「戻ってお母さんに言いなさい。もう、うちの団子は全部食べてなくなったって」と言いました。私はこれを聞くと、「どうもすみませんでした。失礼します」と言って、お辞儀をすると、急いで家に戻りました。

 養母は私が団子を持って帰ってこなかったのを見ると、癇癪を起こしました。まるで隣近所に聞かせたいかのような大声で怒鳴りちらし、素足のまま下に下りると、かまどの脇にあった火掻き棒で私のお尻目がけて叩きました。それがちょうど左足大腿骨の付け根あたりに命中し、私は急に足に力が入らなくなり、立っていられなくなりました。関節が脱臼したような耐え難い痛みを覚えました。

 養母が再度私を叩こうとしたので、私は急いで外に這い出し、敷居をまたぎましたが、右足の太腿もいうことをきかなくなったようで、私は両腕に力をこめて門の外に出て、棟の後ろに積んである薪の山に登りました。

 これらの薪は、養父が人に頼んで山から運んでこさせたものでした。太いものもあれば、小さな小枝もありました。棟の後ろに堆く積まれていたので、風除けにもなるし、人から見られる心配もありませんでした。私は養母に折檻されるたびに、この中に入りこんで隠れました。

 養母は外まで追ってきて折檻しようとはしませんでした。よその人に見られたくないと思っていたのかもしれません。私は柔らかい樹の枝の中で寝入ってしまうこともありました。寒くて目が醒めると、さっき折檻されたことを思い出します。そんなとき、外は寒いので、私はそっとドアを開けて家に入って寝るのでした。

 それ以来、左足の付け根から左足全体にかけて、随分長いこと痛くて、足を満足に地に着けることができませんでした。数日してやっと歩けるようになりましたが、それでも痛くて、歩くのに骨が折れました。その後、だんだんとよくなり、回復しましたが、それ以来「古傷」になってしまい、少しでも長く歩くと、左足の付け根の関節が痛くなり、太腿のあたりが萎縮しはじめました。

 若い時はまだ、それが「身体障害」の兆候であるとは気づいていませんでした。しかし、当時は、それが分かっていたとしても、医者にいって治療するなどかなわない話でした。年を重ねるほどに、左の大腿骨の関節はますます変形して痛み、50歳になった頃から松葉杖なしでは生活できなくなってしまいました。このことのために、私は長いこと養母を恨み、心底彼女の残忍さが許せませんでした。

養母の気性がそんなふうになったのは

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