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武術の名家、李有甫氏(大紀元)

武を説く

文・章冬

 【大紀元日本8月8日】

(1)武の起源

 武術の起源は、未だ探究されていない。しかし、「封神演義」の中で、多くの武将の勇猛な善戦が描写されている。彼らは手に得意の武器を持ち、神がかった技で格闘するのである。それは3000年以上前のことであった。

 だれもがよく知っているように、「三国演義」の後、人々は忠勇義烈で武功の並外れた関羽を、武の聖人として奉るようになった。

 中華文化では、一文一武がずっと寄り添うように対をなして存続されてきた。これは、国を治め邦を安んじ、友と交わり客をもてなし、身を修め、性を養い、素質を高め、思想を豊かにし、そして知識を増し、身体を強健にするには不可欠の要素であった。

 少しでも武を提起すると、兎角それと一緒に暴力、破壊力、非理知的、脅迫的などなどの概念が巻き起こり、人は之を遠巻きにして見て退き、遠巻きにして恐れ、そして敬して之を遠ざけるのである。

 しかし、その字を解するに、「武とは、矛を止める」の意味である。そのようにして、意味を拡大して見てみると、武のもつ優雅さ、正義、機転、豪快さ、滅悪、邪の鎮圧、寛大さ、博愛はその内面にあるものである。

 華夏(中国の古称)の歴史上、武術界にまつわる多くのエピソードがあり、生き生きとして活躍した武術家のイメージが数多く残されている。それらはさまざまな角度から、武の豊富な内包を説明している。その頂点を極めた功夫にとどまらず、その武の形象の背後には、その審美、思想、道徳、境地があり、それは宇宙の時空に対する延伸、探索、展開を行うまでに至っているのである。

(2)道徳教育としての武術の練習

 武術の練習は辛いものである。古から夜中に鶏鳴を聞いて起き出し剣舞をしたという話がある。それゆえ、武を習う者は往々にして真夜中に起き出して練習を始めるものである。

 「冬練三九、夏練三伏」という言い方がある。つまり、一旦武を習うことを決心したら、これを固く守ってぶれず、そのようにして始めて武功が伸びるものである。三日漁に出て二日網を晒すようなやり方は、基本的には結局何にもならないものだ。

 「内では気を練り、外では筋骨を鍛える」、「少し長じれば、少し強くなる」、「武を練らんとすれば、苦を恐れるなかれ」。これらの話は本当に道理を説くものであり、また先人達の苦労の賜物でもある。

 柔軟で筋を引っ張る苦痛、馬歩をくくることの耐え難さ、一招一式を千万回繰り返すことなどは、実際一般の意志力では持続して耐え難いものだ。背後にある辛酸の血と汗、無味乾燥な単調さ、くる日もくる日も単一で、代り映えしない生活、確かにそうだ……。

 しかし、長期に渡る「立てば松の如く、臥せれば弓の如く、動けば脱兎の如く、静かなること処女の如し」などなどの要求は、人の生活行為を規範するばかりでなく、人の道徳観念の基準というものに対しても、一種の物言わぬ影響力があるものである。

 武術を習う中では、長期の基礎的な功の訓練が終わった後、ようやく一つの型を失わない基本的な姿勢を打ち立てることができ、そうした中で技に些か味を出し、ないしは一門の風格と特徴を現すことができる。さもないと、だらしなく基礎が安定できぬならば、玄人は無論、素人でさえも「本当に話にならないな」と嗤うのである。

 武術の中で言う、手、目、身、法、歩は、四肢と顔立ちを配合するものであり、これは比較的に表面的なものである。精、気、神を講じる頃になると、それは内在するものであり、武術を練習するものは体得しなくてはならない。

 何をするにも天分を言うが、武術ではそれがより重要視される。つまり苦を舐める以外に、天分があってこそ開花することができる。これは達人になろうとする一つの面であり、さらに別の面もある。それは武の徳を講じることで、徳の無いものは器になれない。

 基礎的な訓練が一定の形を備えた後、熟練して完成したひとまとまりの拳術は美しい内包を帯びるようになる。達人は、その力の入れ具合、精妙、リズムの緩慢、表情と態度、意識、呼吸、さらにすべての攻防の要点で、そのすべての演武が徹底して、てきぱきしている。そのようにして、自身で悟ったものを加えて、拳法の風格をことごとく現し出すのである。

 さらなる達人ならば、その演武に優美さが含まれていて、一門の風格を表すことができると同時に、技法の独特で高いところを隠し蔵することができ、行く雲や流れる水の如く、簾を隔てて花を愛でるが如し。素人は大体においてその技量がその弟子と何の違いがあるのか見てとれない。しかし目利きの達人であると、暗黙のうちに見て驚きつつ喜び、それによって開眼し収益をあげたと感じられる。

 それより更に高みの達人は、おいそれと演武を見せないであろう。清風明月、游魚飛鷹、矯兔猛虎などをもって比喩して切磋琢磨する中で、ないしはその深さを測り知れない目線の中で、もしかして偶然にも妙技を少々披露する中で、その水の深さを知るというものであろう。

 この時分の名人は、名利に対して淡白で、矛盾と是非の判断に対して、往々にして一般人とは違う基準を持っていた。彼らのよく守ったのは道であり、一貫した自分たちの道であった。守ったのは、真理と正義であった。

 考慮すべきは、功夫が最高であるかどうかということに加えて、その円熟の度合いである。彼らは古代の旧事や、先人と祖師を追究する。憂慮すべきは人類が完全に武道を継承しその威光を発せるかどうか。顧みるべきは武術界の純真さと各派の調和、などなどであった。

 彼らの眼光は遠く遥か虚空を見つめ、度量は広く、言葉遣いは簡明で、智能は澄みきり、生活は隠遁し、一本筋の通った仙人のようであり、遠く俗世間から離れていた。

(3)修煉とは不可分の武術

 武術の流派は数多くある。手法、腿法、歩法、身法にはそれぞれ特色があり、「串」「跳」「躍」などそれぞれ異なり、刀、槍、剣、矛など各種の武器にも枚挙にいとまがない。猿、虎、鶴、竜、狗などなど拳法の種類にも枚挙にいとまがない。鉄頭功、鉄挫功、鉄臂功、軽功、金剛腿、羅漢脚、一指禅……鉄布杉、百歩穿楊などなど素晴らしく高い功夫は、実際には一々数え切れるものではない。

 本当に、5千年の中国文明は、武術界の方面だけでも、人をして十分に感嘆させられる。確かにそれは一つの秘蔵の宝物であり、一生探知しにくいものである。

 少し耳年間(みみどしま)の常識人なら知っているように、武術は単純に武芸だけの問題ではなく、それは往々にして伝統的な漢方と表裏の形になっている。血気の運行、陰陽の四時、脈絡のつぼ、薬草の配合、打ち身捻挫、金、木、水、火、土、心臓、肝臓、肺、脾臓、腎臓などなど、多くの武術界の達人はこれらのことに精通していた。

 このため、ある方面から言って、武術は人体学問の問題に及んでいるため、そのような人体生命に対する研究と探索は、武術の達人が考慮すべき範疇でなくもないのであろう。

 こればかりか、武術は一定の程度に達すると徳行に対する要求が段々と高くなる。多くの武術界のエピソードの中で、師が弟子を探すと言うではないか。師は弟子の生まれつきの天分を見るだけでなく、さらに弟子の道徳品行を見るのである。

 たくさんの本当の奥義、秘訣は、師が弟子を長い間観察してから、最終的にある弟子に伝えるものである。多くの弟子たちは、辛酸の雨雪、酷暑と厳寒の中を師についていき、人生の大半を費やしても結局はその本当の教えや奥義を授けられることがない。なぜならば、彼らの品行によっては、師に信任され気に入れられることがないからである。

 このようなものだけではなく、武術は一定のレベルに到達すると、それは功能の開発となり、技術の問題では決してなくなる。なぜなら、道徳的によくない人がもし大きな能力を備えたならば、郷里に損害をもたらすだけでなく、悪事の限りを尽くし、武術界の名声を傷付けるからである。

 その上、道徳的によくない人は、功能を出すのが難しく、それでそのような人は高い境地に到達することが難しい。軽功、百発穿楊、鉄布杉などなど、往々にして望むものに及ぶことはできない。

 道徳の高尚な者は、よく功能を発揮し易く、一定のレベルに到達し、一門の使命を汚すことはないのである。実際に、ある一定のレベルに到達すると、武術と修煉とは不可分のものとなる。人の徳行に対する要求はとても高く、また心性に対する要求もとても高いものである。宇宙の規則に同化するので、更に宇宙の特性に近づく。それゆえ、達人は往々にして名利を軽く見て、世間とは深く交わらず、品行が尋常ではない。

 松風がしんしんと吹いて、朝日がほのかにさす黎明の中;星と月とが朗々と照って、鳥が鳴く中;林間の泉がこんこん流れ、溝が深くて険しい中;洞穴でほの暗く、蛇やけものが出没する中;路地が深く家が静かで、階段が苔むし、窓がかびる中、古さびた香炉の前で、色あせた経書を読む中…、彼らは思索に静かに耽って、黙々と思考を繰り返し、演武の妙技を煉る。下腹部では赤々と丹を練り、心霊からは塵を払い落とし、心を清め、欲をなくし、恒常的には道に向かい、段々と功夫を積み上げるものである。

 武術とは、このように神秘的にして測り知れないものなのだ。その複雑さ、その秘密、それの達する絶妙の域、その源の脈絡、ほとんど至る所すべてが謎だ。

(4)武術もまた神が伝えた文化 

 中国の文化は神が伝えた文化であり、武術もまた例外ではない。神が伝えた文化であるので、その次元の造詣は無数にあり、人にとってはほとんど限界を知らない。同時にその中に修煉的な要素が含まれ、これも頷けるものだ。

 それでは、武術の作用とは何であろうか。人々はきっと十条、百条も書き出すに違いない。修煉者として、修煉の角度から、少しではあるが自らの認識を述べてみたい。

 武術それ自身が修煉の要素を内包しているのであれば、それでは、その普及の中で、人々の思想の中でもまた修煉に対してある一定程度知っていなくてはならないのではないであろうか。それがこの一である。

 第二に、武術は徳を重んじる。そして正法修煉は徳を重んじなくてはならないため、武術それ自身が道徳を維持する作用がある。

 第三に、人類の道徳を維持するのと同時に、武術は正気を揚げて広めることができる。

 人の意志力を養成し、人類の忠孝の観念を維持し、人の胆力を鍛錬し、人の意志力を練磨し、人の度量を広げ、勇気を養い、そして人をして悪を憎むこと仇のようにし、豪快にして義理堅く、威厳があり、何ものにも屈せず、火水に臨んでも怯まないものである。

(翻訳・太源)

 (09/08/08 00:10)  





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