THE EPOCH TIMES

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(32)「慈愛に満ちた養父」

2008年05月13日 00時00分

 私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。

 この日、私は西棟の南の間の王おばさんの所に泊まりました。数日して養父が私に会いたいというので、私は恐る恐る部屋の中に入り、まず一礼しました。養父はもう座ることができるようになっており、私に名前と歳を聞きました。私は中国語で、「劉淑琴」という名で、年が明けたら9歳だと答えました。養父は、私が聡明で礼儀正しいとほめてくれて、中国語を覚えるのが早いし上手だと言いました。養父の温厚で親しみやすい語り口を耳にして、私はここ数日抱いていた不安な気持ちがなくなりほっとしました。

 養父は警察官だと聞いていたのですが、これほど穏やかでやさしい人柄だとは思いもよりませんでした。私の第一印象は、養父は養母に比べてはるかに年上でしたが、慈しみがあり、少しも怖そうなところはありませんでした。そのうえ、養父も私を気に入ってくれたようで、私によその家に泊まる必要はないので、帰ってくるように言いました。

 しばらくして、私は養父がしばしば養母と喧嘩をしているのに気が付きました。その多くは、養母が悪いんだといって私をかばってくれたことによるものでした。養父は誠実で情に厚い人だったので、私のことが気に入っただけでなく、私をいたわってもくれました。養父は他の人に対しても同様であったため、中国共産党が土地改革を行った際にも人に殴られたり、吊るし上げられたりということがありませんでした。ところが、養母のほうはこれとは全く逆で、皆から「ずるい婆さん」と言われました。

 お正月になり、とても賑やかになりました。大通りでは、ヤンガ(田植え唄踊り)が聞こえています。養母は一人で食事を済ますとさっさと外出し、私に養父の水や薬を飲ませ、下の始末などをするよう言い付けました。弟の趙全有もまた養父と縁日を見に行きました。王潔茹もお母さんとヤンガを見にいきました。南の間の趙おばさんは纏足で歩くのが不便だったので、家のオンドルの上で餃子を作っていました。

 我が家の北の壁は大きな街道筋に面しており、ドラや太鼓の賑やかな音が聞こえてきました。どうやら、ヤンガ隊が私たちの通りにやってきたようです。養父は私にヤンガを見に行くよう促してくれました。私も本当に見に行きたかったのですが、養母に叩かれるんじゃないかと心配で、それができないでいました。すると、養父は私の心を見透かしたようで、「行って来なさい。お母さんのことは心配いらないから」と言いました。

私は天にも昇る気持ちになり

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