THE EPOCH TIMES

高智晟著『神とともに戦う』(61) 2>163(2は163より大きい)②

2011年03月06日 08時31分
 【大紀元日本3月6日】

1、「殺戮」前の小谷囲芸術村

 広州市南部の郊外、元番禺区に新たに造られた鎮(日本で町に相当する行政単位)からは、川に浮かんだ小島が見える。その名を「小谷囲島」という。この島は、珠江の主な航路沿いにたたずみ、広州市の長州島と支流を1本隔てたところにある。島には橋がないため、周りを水に囲まれ、島には船で行くしかない。島はまだ手付かずで、すべて緑で覆われており“広州の肺”と称されていた。この小島には、多くの歴史的な旧跡がある。最も古いものは、南越国(訳注、紀元前に中国南部から北ベトナムにかけて栄えた国)の王の狩猟場で、そこには王のために建てられた風雨亭が2つある。それぞれ、南は南亭、北は北亭と呼ばれており、現在の南亭村および北亭村の名はこれに由来する。静かな小島に住むのは、半農半漁の村人たちで、都市から離れているため、島民には純朴な風情が残っている。

 1994年、ある芸術家の一群が自分たちの楽園を築くために、この小谷囲島を選んだ。彼らは、小谷囲島の南端の川べりに、およそ17.3ヘクタールの商業住宅用地を芸術家村の建設のために購入した。そして長年にわたる苦労の末、ついに海外にまでその名声が広がるほどの、芸術村の様相が出現したのだった。

 広東省は、我が国改革解放の最前線であり、何をやるにしても先頭を走る。_deng_小平の改革開放の「天下の先たるを恐れず(先例となることを恐れない)」の思想に後押しされ、芸術家たちは、芸術創作にもっとふさわしく、有利な環境を造り上げようと積極的だった。これにより芸術村は、広東省広州市における改革解放の1つの産物となるとともに、改革解放後の文化芸術の熱気あふれる向上ぶりと、芸術家による創作意欲のかつてないほどの高まりを人々に見せる例証となったのである。また同時に、広州市の対外文化の「窓口」として高い注目を浴びることにもなった。

 芸術家村には、合わせて165棟の別荘が建てられた。全て、芸術家が各自の芸術理念および作業の習慣に基づいて設計、建造したものである。このため、スタイルはそれぞれ異なり、1つとして同じものはない。庭園でさえ、各々の建築スタイルに合わせた造りになっている。このため芸術家村は全く、一般の分譲別荘のような型にはまることなく、芸術家や建築士それぞれの芸術センスを存分に体現したのである。例えば、中国画の画家の別荘は色濃い中国伝統のスタイルを持ち、大きな画室も備えていた。大きな作品は、市内の家では広げて描くことができないので、この場所こそが彼らの才能を遺憾なく発揮できる場所なのである。また油絵画家ならば通常、本物の油絵を描き出すためのトップライトをほしがるであろう。或いは彫刻家ならば、トップライトの差す作業場のほか、吹き抜けも必要だ。並々ならぬ高さのある彫刻作品に、空間を残すためである。芸術村の多くの建築物およびインテリアは、実は皆、芸術を追い求める芸術家魂の証(あかし)なのだ。そのため、通りすがりに外から見ただけでは、所有者の意図を完全に読みとることはできないだろう。それぞれの家に深く足を踏み入れてこそ、多くの芸術の意味や価値に気づくことができる。部屋の大半はすでに、芸術家の作品および芸術の精神が一体化し、分けることができない。

 この芸術村が「殺戮」に遭う前、そこには数十名の芸術家が住んでおり、中には、広東省の政治協商局常務委員や政治協商委員、広東省の美術家協会の常務理事、美術協会理事、教授、油絵画家、中国画家、版画家、彫刻家、工芸デザイナー、高級エンジニアなども含まれていた。さらに民主党派の政党である、致公党(訳注、中国国内の政党の一つ。中国致公党)の広東省小委員会委員、農工党(訳注、中国国内の政党の一つ。中国農工民主党)の広州市委員会委員、および海外の華人芸術家、文学歴史博物館の館員もいた。この芸術村がカバーする芸術の範囲は、きわめて広かったのである。というのも、この芸術村のメンバーは皆、有名な芸術家や教授からなり、彼らの画室や制作室が村にあったからだ。そこで、芸術家同士の集いや交流もしばしば開催された。

 芸術村では、不定期におこなわれる芸術の交流のほか、さらに「芸術祭」も開催していた。近年はすでに、“小谷囲芸術祭”を2回開催(第3回小谷囲芸術祭の開催の直前、癒着した官と業がここに魔の手を下した)しており、国内および海外から芸術家が集い、絵画展や見学会、懇談会が行われるなど、その影響は実に多大であった。ある新聞記事によると、小谷囲芸術村は現在、中国で唯一、芸術家たちが自発的に築いた、ハイレベルで、数多くの芸術家を抱える芸術創造コミュニティだという。嶺南(訳注、広東・広西地域を指す)画派の第2代、第3代の代表的な画家だけでも十数名がここに画室を構えていた。実際、ここは嶺南画派の重要な創作基地であった。広東省の、99年の昆明万博で金賞を獲得した彫刻家などのアトリエも、ここに設けられていた。また、広東省の油彩画界の教授や中堅作家、さらにデザイン芸術設計科の第一人者もここにアトリエを築いた。中央政府の指導者から称賛された北京の人民大会堂内の一室「広東庁」をリニューアルしたデザイナーや、珠島賓館、星海音楽ホール、海戦博物館などの改装を手がけたデザイナーも、この芸術村に作業室を設けていた。

(続く)
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