脱北者と元収容所保衛隊員、都内で証言

2007年12月18日 10時19分
 【大紀元日本12月18日】第2回北朝鮮人権侵害啓発週間「強制収容所の全貌をつかみ収容所廃絶運動を起こそう―証言と提言の集会」が15日午後、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会:名誉会長・小川晴久氏」の主催により東京千代田区内の星稜会館で行われ、北の完全統制区域からの脱北生還者とその収容所警備隊員を招いての証言が一般公開された。

 
北の収容所施設内で出生したシン・ドンヒョクさん

ケチョン第14号収容所で22年間を過ごしたシン・ドンヒョクさん(25)は、1982年11月に北の収容所施設内で出生、両親は共に完全統制区域に収容されていたものだったという。

 ドンヒョクさんの父親・シン・キャンソプ氏(ピョンヤン近郊出身)は、12人兄弟であったが、その兄弟が朝鮮戦争当時に南に加担した容疑から逮捕収容され、その後の模範的労働が収容所施設内で認められ、同じ施設内にいたチャン・ヒュキョンさんと「表彰結婚」、一定期間を同棲してドンヒョク氏が施設内で出生したという。

 ドンヒョクさんは、その父親が南につがなる容疑であったために、政治犯の一部として収容所内で下腹部を焼かれるなどの凄惨な拷問を受けた後、その母と兄の一般公開処刑を目の当たりにした。当時、母と兄は収容所内の重労働と素食による栄養失調で、骨と皮ばかりに瘦細って弱り切っていたという。

 ドンヒョクさんは施設内では、12歳まで母一人子一人の生活であったが、施設内の中学を卒業すると、ミシン工場に配置された。毎日のように労働に励んでいたが、栄養失調からミシンを運搬している際に床に落としてしまい、保衛隊員に中指を切断された。しかし、「命までは取られなかった。なんて自分は幸運な人間だ」と内心安堵したという。

 
シン・ドヒョクさんが施設内で毎日食べていたコーリャン飯

ドンヒョクさんがミシン工場内で労働していた2004年のある日、外界を知るパクという囚人にミシンの操作法を教える機会があり、それによって初めて施設外の世界を知らされて脱獄を決意、2005年1月2日の雪の降る日、高圧電流が流れる有刺鉄線を乗り越えて脱獄に成功したという。

 ドンヒョクさんはその後、中朝国境地帯を行き来する担ぎ屋の行商人に紛れて脱北、中国領内でビジネスマンの韓国人男性に事情を話し、上海の韓国領事館に引きとられ救出された。

 ドンヒョクさんは、「北では大規模な工事には、“生きて帰らずの大工事”と称して、収容所施設内の囚人が動員されている。彼らは、都合のいい生産単位として、生きているうちは酷使され、最後には政治犯として処刑される…これらの労働力を補充するため、人口を増やす必要があった…」などと語った。 

 
元保衛隊員のアン・ミョアンチョル氏

ヘリョン第22号収容所の元保衛隊員であったアン・ミョンチョル氏は、父親が党員で食糧貯蔵庫の責任者であったことから、高校卒業後は出身成分を買われて保衛隊に入隊、昼間は施設内の生産物(穀物等)をトラックで収集し、夜間は施設内の警備にあたっていたという。

 92年当時、ミョンチョル氏が夜間警備についていると、施設内の勾留所で政治犯の拷問が行われており、北でも南でもない訛りで、在日や日本人妻らが、「金日成を信じて、北へやってきたのに…。なぜ殴るのか」と絶叫する声を毎晩のように聞いたという。そして、「それらの絶叫が、ある日突然聞こえなくなる…。彼らは撲殺されたのに違いない」と証言した。

 90年代初頭、北朝鮮は深刻な食糧難に見舞われ、当時のミョンチョル氏の父親は中央当局とトラブルになり、政治犯として逮捕されたため、ミョンチョル氏自身もまた危機を感じて脱北を決意、自ら収容所のトラックを運転して越境し、94年に韓国入りした。

 ミョンチョル氏は、「当時、隊員たちは実戦的な格闘訓練と称して、囚人たちを殴っていたが、彼らと生活を共にするうちに、良心の呵責に悩まされるようになった…今ではすまないと思っている」と内心を吐露、述懐した。

(記者・青嵐)


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