THE EPOCH TIMES

東京・六義園 色づく季節 都心の仙界

2010年11月27日 07時00分
 【大紀元日本11月27日】日本文化が、いつの時代も中国文化と密接な関係をもってきたことは言うまでもない。

 奈良天平の時代には遣唐使節団を派遣して、国家の基盤となる律令制度を日本に取り入れ、仏法の戒律を伝える師を招いた。

 歴史がやや下って平安時代に入ると、唐土では地方軍閥と化した節度使の反乱が続くなど、絢爛豪華を誇ったかつての唐にもかげりが見え始め、落日の色は隠せなくなった。

 寛平6年(894年)には、第18次遣唐使の大使に菅原道真が任命されたが、この使節団は日本を発することなく、以後、遣唐使の時代は終わった。そして907年、高祖から20代289年続いた唐王朝は、ついに終焉の時を迎えるのである。

 そのころ日本では、唐詩(からうた)に対する和歌(やまとうた)への創作意欲が高まり、延喜5年(905年)醍醐天皇の勅命により、最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂された。しかしながら、自国文化の独立的発展を目指したこの国家プロジェクトも、まずは中国詩の様式を意識して模倣し、和歌の形態を分類・定義するところから始まったのである。

 平安朝の貴族文化を彩るにあたり、和歌の果たした功績は絶大であった。その和歌論の原点として紀貫之が著した『古今和歌集』仮名序の冒頭には、「そもそも歌のさまは六つなり。唐の詩にも、かくぞあるべき」とある。これは中国最古の詩篇『詩経』における詩の六つの分類すなわち六義(りくぎ)に倣って、和歌を六種(むくさ)に定義したことを指している。

 時代はさらに下って、江戸文化たけなわの元禄の頃。五代将軍・徳川綱吉の側用人で、和歌にも造詣が深かった柳沢吉保は、元禄15年(1702年)に自らの下屋敷に造園したこの庭園を六義園と名づけた。

 もっとも当時は和音で「むくさのその」と称していたという。現代では漢音読みの「りくぎえん」が通称となり、現存する貴重な大名庭園として全国に知られている。

 その六義園が、今年も鮮やかな色づきの季節を迎えている。

 中央の大泉水を囲んで、ゆるやかに園内を巡る回遊路。木立の間を澄み切った秋風が吹き抜けると、かすかな葉ずれの音をたてて黄葉が散り落ちる。和漢の文化の粋を結集して造られた庭の風景と、梢のかそけき音、木々の香りが織り成す園内は、まさしく都心に奇跡的に残された仙界のようだ。

 交通はJR駒込駅徒歩7分、地下鉄三田線千石駅徒歩10分。通常の開園時間は午前9時から午後5時(入園4時半まで)。年末年始休園。

 11月19日より12月5日までは、日没後のライトアップのため午後9時まで開園(入園8時半まで)。問合せは、六義園サービスセンター03-3941-2222まで。

 
秋空と樹木と泉水が調和する六義園(大紀元)

2枚の巨石を使ってかけられた渡月橋(大紀元)

園内の築山、藤代峠からの眺め(大紀元)

(牧)


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