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21世紀「教育探訪隊」が行く!
未来への伝言『家なき幼稚園』(1)
【大紀元日本12月15日】大坂で歌われた橋詰せみ朗作詞・山田耕筰作曲の「家なき幼稚園」の園歌が残されています。
天地のあいだが
おへやです
山と川とが
お庭です
みなみな愉快に
遊びましょう
大きな声で
うたいましょう
わたしがへやは
広ィろいな
わたしが庭は
広ィろいな
町の子どもは
気のどくな
お籠のなかの
鳥のよう
橋詰せみ朗(本名:橋詰良一)はジャーナリスト出身。当時の大坂で一風変わった「家なき幼稚園」を日本で最初に開園した人です。
日本最初の幼時教育は明治8年12月、京都府立第三十区柳池(りゅうち)小学校舎内に「幼稚遊嬉場」として産声を上げました。柳池小学校は明治2年5月に誕生した日本最初の小学校としても知られています。「読・筆・算・心学」の四教科が設置されていました。しかし幼稚遊嬉場の船出は順風満帆という訳には行きませんでした。幼児教育は世相的にまだ重要視されてはいませんでした。幼稚遊嬉場は開設1年半で閉園となり、昭和4年に改めて開園され平成8年まで存続しその歴史的幕を閉じます。柳池幼稚園記念碑が建立され、日本の幼児教育発祥の地としての足跡を留めています。
大坂では緒方洪庵の敵塾(蘭学)、京都では伊藤仁斎の古義堂(漢学塾)など上方を代表する私塾や寺子屋が活動していました。こうした先取的な教育熱を背景に先駆け的な教育現場が上方で立ち上がっていったのです。
中世にその起源をもつ上方文化を代表する寺子屋は、日本の庶民教育を担う学び舎として江戸時代に全国的に隆盛をみました。時代が下り明治5年に「学制」が発布されると、全国に根付いた寺子屋ネットワークの中から日本の幼稚園や小学校や中学校が分化して誕生して来ます。その中でも明治に誕生し次々に発展を遂げた幼稚園のほとんどはエリート幼稚園でした。そうした時代趨勢の中でネーミングもユニークな「家なき幼稚園」が登場してきます。
橋詰良一氏が大正11年、日本で最初に開園した「家なき幼稚園」は、学校法人・室町幼稚園(大阪府池田市)としてその意志が現代に継承され存続しています。室町幼稚園の歩みと沿革に「前身『家なき幼稚園』の信条は時代を越えて本園の理念として今も息づいております」と謳われています。
家なき幼稚園は園舎がなく、つまり家がなく戸外を学び舎としたことに由来しています。池田市室町の住宅街の子どもを対象(初年度60人ほどの応募があった)に呼びかけられた家なき幼稚園は、呉服(くれは)神社の社前の地から始まりました。「家なき幼稚園」を発想した橋詰良一氏は大阪毎日新聞事業部長を務めた人でした。外遊先のヨーロッパで病気になりそこで見聞した子どもたちの姿から思い立つところがあり、屋外保育の理念に基づく外国の幼稚園「ハウスレス・キンダーガーデン」を手本に大正10年に「家なき幼稚園」の骨格を構想します。橋詰良一園長は「子どもは子ども同士の世界に住まわせ、家という建物の枠から開放して、自然の中で育てるのが何よりの幸福であると思いついた。これが家なき幼稚園設立計画の最初である」(著書:家なき幼稚園の主張と実際)と高らかに述べています。
(つづく)
(06/12/15 20:40)
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