中国医学は「科学的」でないのに、なぜ病気を治せるのか?

2007/05/01 01:15
 【大紀元日本5月1日】 中国医学は「科学的でない」とよく言われるが、数多くの病人を治している。「科学的」だと言われる西洋医学もまた、多くの病人を治している。ということは、病気を治せるかどうかという点では、科学的か科学的でないかは重要ではなく、中国医学か西洋医学かということも重要ではない。重要なのは、治療効果であり、疾病から来る苦痛を和らげることができるかであり、生命を守ることができるかどうかということだ。

 「科学的でない」という評価は、必ずしも貶めたことにはならない。もちろん、持ち上げたことにもならないが。宗教は科学ではないが、それを信じる人の数や程度は、科学を信じる場合をはるかに上回る。哲学も科学ではないが、この世界を説明し、心を慰める点においては、科学よりもずっと役に立つ。芸術も科学ではないが、情感を煥発し情操を陶冶する点において、科学よりもずっと効果がある。巫術(ふじゅつ、シャーマニズム)は科学ではないが、心理的な需要を満足させたり、特殊な情感の欲求の面では、科学よりもずっと効果がある。

 病気を治す場合、どうして「科学的」でなければならないのか?病気は「科学的」に罹ったものだから、「科学的」に治さなければならないとでも言うのか?民間療法や庶民の経験であれ、さらには巫術であっても、病気を治すことができればいいではないか?それに「科学」「文化」「芸術」「哲学」といったレッテルを貼る必要があれば貼ればいい。

 現在、人々の病気はさまざまな治療法の開発が必要である。特に、癌やエイズといった難病に対して、科学が躍り出て治療を試みているが、現況ははかばかしくない。それにもかかわらず、科学はその砦をしっかりとガードし、他の方法が治療を試みることを許さない。

 この世界には、初めから科学があったわけではない。ただ、科学がなかった時代に、人々は生きてこられなかったであろうか?日々の暮らしができなかったであろうか?暗黒の中で暮らしてきただろうか?宗教、哲学、芸術、巫術のいずれも、科学より先に生まれたではないか。いずれも、科学が生まれた後でも依然衰えていないではないか。つまり、人の内心世界は豊かであり、人の情感は余りにも複雑なので、宗教であれ、哲学、芸術、巫術、さらには科学であれ、どれも一つだけではこの世界を独占することはできないということだ。

 この世界はおそらく、いつまで経っても、科学を用い科学を信じる人は少数であり、また、科学だけが存在しその他の学問が存在しないなどということは、永遠にありえないであろう。科学はおそらく、永遠に独断場となることはない。科学によるある現象に対する解釈がより正確であり、よりよく説明ができ、ある種の手段によって説明できるからといって、その説明が唯一正しいものだというわけにはいかない。

 早くから科学者と哲学者が詳細に比較検討した結果、宇宙の生成、天体の進化、生命の起源、意識の成因などの重要な難しい問題について、いわゆる科学による解釈は、宗教的な解釈や神話、伝説などによる解釈と特に違いはないということがわかった。そして、難しく疑惑の多い問題であればあるほど、科学による解釈は神話や伝説に似てくる、という法則が見出された。

 中国医学は、科学的であろうなどとする必要があろうか?「科学」という蓋では「中国医学」という瓶に蓋をすることなど決してできない。「科学的でない」ということを何を恐れているのか?科学的でなれば間違いであり、良くないものであり、存在価値がないというのであろうか?科学的でなければ、人より一段劣っており、正々堂々と物が言えないのであろうか?……物にはそれぞれに基準があり、それぞれに評価があり、それぞれに存在価値があるはずだ!

 中国医学は、西洋医学と比べてどちらが科学的かとか、自分自身が科学的かという点で「頑張っ」てはだめで、どちらがよりよく病気を治療できるか、という点から問題を見なければならない。中国医学は、「中西医結合(中国医学を西洋医学に組み込む)」などといった方向に進むべきではないし、西洋医学はなぜ「西中医結合(西洋医学を中国医学に組み込む)」を提唱しなかったのか?「中西医結合」という言い方自体、中国医学を自ら矮小化させていることになる。そんな必要はない!西洋医学は、人を物として見立てて治療するが、中国医学は人を人として治療する。西洋医学は、人を部品からできていると見立てて治療するが、中国医学は全体を一つとして人の命を救おうとする。

 中国医学と西洋医学のどちらが中国の国情に合っているかということを議論する必要もない。もとより、ドイツには「ドイツ医学」なるものはないし、イギリスには「イギリス医学」なるものはないが、そうかといって、西洋医学が天下に遍く広まっており、全ての民族の医術や医薬が消滅したり吸収されたりしたというわけではない。西洋医学がどんなに科学的でも、人類の医療、医薬、医術を独占する日は決して来ない。なぜなら、医療、医薬、医術は、永遠に民族の文化、哲学、伝統と伴にあるからだ。皮膚と血液は永遠に、骨格と一緒になってはじめて存在するものであり、皮膚は要るけれど血液は要らないとか、血液は要るが骨格は要らないということにはならないのと同じである。

 中国医学はまた、「いつでも誰に対しても繰り返すことができ、同じ効果が期待されるはずだ」という西洋医学の考え方をまねるべきではない。人はそれぞれに様々であり、一人ひとり自分の世界があり、みな異なった肉体を持っている。その上、精神は限りなく複雑で、情感も限りなく豊富であり、同じ一人の人間であっても、時と場所が異なれば内面世界が異なるわけであるから、万人が同じであるなどということがどうしてあろうか?本来同じはずの病が同じ人の身に2回起こったとしても、それはすでに同じ病ではなくなっているわけだから、異なる人の身に起こった場合、たとえ原因が似ていてもどうして完全に同じでありうるだろうか?

 「繰り返し可能」ということ自身、果たして科学的かどうか、はなはだ疑問である。全てのものが「繰り返し可能」なわけではなく、できるものはできるし、できないものはできない。不幸なことに、中国医学であれ西洋医学であれ、医学というものが相対するものは、以前には存在せず、今後もまた存在せず、今現在も他に類を見ない、宇宙のような精巧な構造を持つ「人」なのである。

 「科学的」か「科学的でない」かを争って何になるのか?科学的であったらどうだというのだ?科学的でなかったらどうだというのだ?科学の時代に明らかになった最大の特徴は、科学は唯一のものではなく、一切に取って代わることことはできず、また最大の宗教にもなりえないということである。私たちは科学だけを信ずるわけにはいかない。科学を信じたからと言って必ずしも上手くいかないこともあれば、科学を信じなくとも上手くいくこともあるのだから。

(明慧ネットより転載)


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