大紀元時報

皇帝の宮殿はなぜ「紫禁城」と呼ばれるのか?

2021年7月25日 17時00分
イメージ写真(momohana / PIXTA)
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明代永楽4年の7月に、永楽帝北京宮殿を建てるよう勅令を出し、15年かけて永楽19年1月に完成しました。これが天子の内宮、通称「紫禁城」です。紫禁城はそれ以来、常に明清王朝の皇帝の宮殿であり、天子が天意に従って、国家を管理してきた場所です。では、「紫禁城」と名付けられているのは何か謂れがあるのでしょうか?

中華文化思想の源泉を伝える「紫禁城」には長い歴史があります。

『史記・天官書』によると、空には「星有上中下三垣」、古代中国の星空には、上宮、中宮、下宮の3つの主な領域があったという記載があります。その中で、「中宮」は「紫宮」とも呼ばれていました。『史記正義』によれば、「紫宮」は天皇大帝の神居です。

後漢代の太史令、天文学者であった張衡(ちょう こう)は、天文学書として『霊憲』を著し、空の星垣と星宿を詳しく説明し、「紫宫為帝皇之居」、「天子之常居」と述べています。 張衡の考えでは、天空の星と地上の人・事には対応関係があり、人が見ている星は単純な星ではありません。星は物質の存在ですが、その精神の源は「天」の空間にあり、物質と精神はつながっていて、統合されています。永楽帝北京に建てた「紫禁城」は、天皇大帝の神居である「紫宮」に対応し、中華文化における伝統的な宇宙観や人生観を伝え、それは天人合一思想の具現化です。

では、「禁」とはどういう意味でしょうか? 天子の宮殿は天意に従って、国家を管理してきた厳粛で荘厳な場所であるため、自由に出入りすることができず、厳重な出入管理が設けられた「禁城」でした。

宮殿で最も重要な建物は、太廟と皇帝が政務を執る場所であり、明堂と呼ばれています。太廟が正面にあり、太室が後方にあり、その建築形態は天上の「紫宮」にも対応しています。

永楽帝が建てた紫禁城では、中央の最も高い位置に明堂が建てられています。

しかし、皇帝の「法紫微以居中,拟明堂而布政」は、単に天と星の外見を模倣したことではなく、さらに重要なことに、天に順応して行動するという神文化の核心精神を体現していたことです。つまり、天子は天の道を洞察し、それを用いて官吏を立てて民を治め、教育し、天意に合わせ、自然の道を犯さず、陰陽を調和させ、天下を統合していくことです。

永楽帝が建てた紫禁城は、名実ともに天上の天皇大帝の神居である「紫宮」に対応し、中華伝統的な神文化の奥深いと天人合一の思想を現れ、「天に従う者は栄える」という精神は、星のように空で明るく輝いています。

(翻訳編集・啓凡)

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